昭和50年9月28日 特別奉修委員 入力者松本正宏
丁度四時の御祈念を終わった時でしたが、和歌山県から何とかというちょっと教会名の御届けがしてあったのですけれども、立派なご婦人の方がもう60にもなられるだろう。50ぐらいな感じでした。品の良い方でした。お参りしてみえまして、実は今日は私の方の教会では、こちらのおかげの泉を皆読ませて頂いた。まるで、代表でね、合楽教会をみて来てださいという事でした。参れちゃ言わん、見に、そういう意味の御届けをさせて頂きました。若先生がこう案内して、そうしよったら、秋永先生達があの、石川さん連れて帰って来ました。丁度食事の準備も出来てましたから、一緒に食事でも頂いた事でございましたけれども、もう、本当に見ると聞くとが、ね、こんなに素晴らしく一致しておるところは無かったというて、あの、聞くということは、あれで聞いておられたのですね。あの、いわゆるまあ、大体の事はあらかじめ想像がついとったけれども、もう本当にあの、おかげを受けるということはこういうことだろうかと、本当によく御土産が出来ましたというて昨日帰られました。
なるほど合楽の信心は聞くことも参ってくる事もだけれども、やはり、本当に見なければ分からないのじゃないでしょうかね。とくに私の信心なんかというのは実際によってみて、そしてあの、それこそ、久富繁雄さんじゃないけれども、もう、どのような場合であっても、神様がそこに生き生きと働いてござった。親先生と共に。それを目の当たりに見ることができるというわけですね。まあ本当に、ああいう御用をしておられましたから、出なかったら続きませんですね。ですけれども、あの、本当にそこに見せて頂くところに合楽の信心のある意味素晴らしさがあると思うのです。それは、どんな素晴らしいことをいうてもね、それこそ百万言の、昨日、秋永先生が、( ? )なんていうですか、日蓮、創価学会、創価学会の新聞がそこにたまたまあったから、それ一枚もらってきて、中々親先生あなたがいいなさる事を書いてありますよというてから、持ってきましたから、それを見ましたらね、こういう事が書いてある。
「百万言の持論よりも一つの否定しようのない実証を示す事である。」
百万言の言葉、どんなに美しいいうなら美麗の言葉でありましてもね、実証の無いものはだめだと。百万言の教えよりもいうならば一つの実証。しかも否定が出来ない。例えばあの、行本さんが話しておられることが今度のおかげの泉に出てくるのですけれども、あの、疑おうにも疑いようの無い程しのという意味でしたかね。否定しようとしても否定しようの無い程しの物を頂く。それを実証と。実証していくと、それを示していくという事をそういう意味で合楽の場合、ね、もう、問答無用。とにかくみてくださいというものをね、感じるのです。そこでなら、合楽教会におかげを頂いておる、一人一人の信心をですね、または、家庭生活をですね、私の家庭をみてくださいといったような事がもう、見てみらわにゃ分からんというくらいなおかげを家庭の上でも表して頂きたいと思うのですね。
どうぞ